2014年2月24日月曜日

李昌鎬

 韓国の李昌鎬が16歳で囲碁の世界選手権を制したとき、意外に思われたのはその地味な棋風だった。
 ときは二十世紀末、囲碁先進国として日本が世界(といっても極東アジアのごく一部)を牽引し、中国も韓国も囲碁的には、中世の暗黒時代はようやく抜け出 したものの、いまだに土着の強豪の割拠する混沌とした前近代的な状況で、長い伝統と洗練されたプロ制度を持つ日本の敵ではなかった。
 その当時は才能溢れるそれぞれに個性的な日本の碁打ちが、世界最強を誇っていた時代だった。シノギの鬼・趙治勲とその宿命のライバル・小林光一。殺し屋・加藤正夫に、前代未聞のスケールの大きな作戦を展開する宇宙流・武宮正樹、そして巨人・林海峰とアル中・藤沢秀行。
李昌鎬はそれらの歴史に残る棋士達を次々に下してゆきながらも、正しい評価はなかなか与えられなかった。
「芸」ではまだまだ。「勝負」には強くても、「碁」ではまだまだ。
たしかに、李昌鎬の打ち方には、人が若き天才と聞いて思い浮かべるような華やかなものはほとんどなかった。
 目を見張るような大胆な構想、意表を突く戦術、鮮やかな手筋、非凡な着想、思いもよらない急襲、ゆずれない美学、あくの強さ、誰にも真似の出来ない独創 性。これらは、ひとりひとりが選ばれた天才であるプロの棋士達が、看板として掲げながら颯爽と登場してきたものだった。
 だが李昌鎬の碁はそのような興行的な精彩には欠け、とにかく地味で守備的で、打つ手も一見月並みな、誰にでも思いつくようなものにしか見えなかった。
 それでも李昌鎬は強かった。韓国国内では向かうところ敵なしでタイトルを総なめにし、国際戦でも勝利に勝利を重ね、様々な記録を打ち立てていった。国内 戦 41連勝。世界戦グランドスラム。世界タイトル二十一勝。当時、日本が世界に誇っていた棋士達はどうして自分が負けたのかも判らないままに軍門に降って いった。
日本の棋士達もやがて気付いたことだが、彼の強さの秘密は、その平凡でいわば妥協的な穏健な棋風にあった。
局面の可能な全ての変化を対戦相手の先の先まで読みながらも、もっともリスクの少ない、(言ってみれば面白みのない)負けにくい凡庸な手を選び、ヴァイオ リンの弦にミュートをかけるように自他の可能性を狭めて、盤面を単純化して静的に支配する。粘り強く、危険を避け、目先の利益に飛びつかず、勝負を後伸ば しにして、終盤にかけてじりじりと相手を圧倒して行く。不利なときでも一か八かの逆転を狙うようなことはせず、相手が息切れするまでじっとついて行く。相 手がミスすれば的確にとがめ、だが深追いはしない。追い詰められた相手が玉砕覚悟で乱戦を挑んできたときには、隠し持った太刀で一刀両断にする。
それはイチかゼロか、切るか切られるか、潰すか潰されるかという勝ち方ではなく、相手に49点を与えても自分は51点取れば良いとする、極めて合理的なものだった。
それを可能にしていたのは、あまりの無表情さから「石仏」とあだ名された冷静沈着な性格と、「神算」とまでいわれた精密無比な形勢判断能力だった。
だが、そうした棋風は、「ぎりぎりの最強手段の追求」に命を懸ける「勝負師」を高く買う日本の囲碁界(というか囲碁マスコミ)の中では評価されないものだった。
だが、そんな日本囲碁界(マスコミ)の低評価を無視して、李昌鎬は十年以上の長きにわたって世界最強者として君臨し、四十台近い今なお、世界クラスの棋士として活躍し続けている。
実際、もしその当時日本に来ていたら、李昌鎬はこれほどまでには大成しなかっただろう。
李昌鎬の老成した棋風は、師匠の曺薫鉉との戦いの中で生まれてきたものだった。11歳でプロ入りを果たした李昌鎬は、14歳のときから数年にわたって、国 内のタイトル戦で自分の師匠でもある曺薫鉉と対峙することとなった。曺薫鉉は日本で学んだ天才肌の棋士で、軽やかで華麗な棋風で韓国囲碁界を制し、押しも 押されもせぬ第一人者として君臨していた。はじめは李昌鎬も神童らしく、惜しげもなく鬼手や妙手を連発する才気煥発な碁を打っていたが、そうした一瞬の直 感的な閃きの鋭さでは、囲碁界で最も才能がある棋士と呼ばれていた曺薫鉉を超えることは出来なかった。
そこで李昌鎬は耐え抜くことを学んだ。じっと我慢すること。冷静に相手を観察すること。力を溜めること。決して諦めないこと。石橋を叩いても渡らずに別のルートを確保すること。決定的な瞬間以外には決して刀を抜かないこと。
こうして最も天才らしくない大天才が誕生したのだった。
李昌鎬の登場で、韓国の囲碁界は盛り上がり、彼の活躍に影響された数多の俊英たちが次々に登場して韓国は一時期囲碁最強国になった。だがその地位は日本を 越える経済大国となり、国威を発揚するスポーツの一環として囲碁に目をつけ、システマチックに選手を養成し始めた中国に奪われ、今に到る。膨大な人口を擁 する上に、効率的な選手養成制度を確立した中国はまだ十代の世界トップクラスの逸材を多数抱えるといわれ、もはやその盤石は揺るぎそうにない。日本は李昌 鎬の登場以来、長く第三位の地位に甘んじてきた。だが、最近は六冠王井山裕太をはじめとする将来が楽しみな英才達が現れ始めており、お先真っ暗というわけ ではない。競技人口を増やし、今以上に自由で開かれた、切磋琢磨できる環境を作ることができれば日本の囲碁界がまた世界に冠たる日がくるかもしれないと私 は思っているのだが・・・
だが長い目で見れば、日中韓の囲碁三国志など、広い碁盤上の一隅を巡る争いでしかなかったことがいずれ証明されるだろう。言語の制約を持受けず、高度に抽 象的で麻薬的な中毒性を持つ囲碁はチェ ス以上にユニバーサルなゲームになり得る可能性を秘めている。いずれは世界のあちこちから、黄色だけでなく、白い肌や黒い肌をした、李昌鎬以上の天才が現 れるてくるだろう。ブレークスルーは遅くても個人の所有するコンピュータがプロ棋士に勝てるようになったときだ。

(一応言っておくとこれは印象で書いてみただけで、私はプロ棋士の棋風を分析できるだけの棋力もないし、日本の囲碁界が李昌鎬に与えた評価も資料を当たって調べたわけではない)

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